鄧小平が語った改革、半生
張雲方=文?寫真提供
中曽根康弘首相の1984年3月の中國訪問は、鄧小平氏との會談でクライマックスを迎えた。中曽根首相は、北京に到著して3日目の同月25日午前、人民大會堂で鄧氏と會談した。會談は2時間余りに及び、予定していた時間を40分もオーバーした。
中曽根首相が鄧氏に、「1979年に東京にいらっしゃった際にお會いしましたね」と言うと、鄧氏は「もう5年もたちました。5年は短くないです。あの時、私は75歳でしたが、いまは80歳になりました。あと5年したら、無理かもしれませんね」と答えた。中曽根首相が、「80歳には見えませんよ」と言うと鄧氏は、「まだ大丈夫です。今は、仕事を少し減らし、官僚主義を少し増やして、長生きするようにしています」と話し、周りを煙に巻いた。
中日関係について鄧氏はこう語った。「胡耀邦(総書記)は東京で、あなた方と將來を展望する先見的な決定をしました。それは21世紀に向けた友好を実現させることです。しかし、これはイメージ的な言い方です。22世紀も23世紀も友好を続けるということは、末永く代々にわたって友好を続けるということです。もし誰かが反対したなら、いっそう友好的な行動で対応すべきです。これは、私たちの間のどのことよりも重要です。まさにそういう意味で、私たちはあなたと安倍晉太郎外務大臣の來訪を大変歓迎しています」
鄧氏はまた次のように強調した。「私たちが中日関係を見る場合、前向きに、歴史的な長い目で問題を見るべきです。今後もさらに緊密に交流することを望んでいます。これは私たちの共通の願いです」
さらに鄧氏はこう続けた。「中日の友好協力関係を発展させることは、10年や20年のことではなく、長期的な戦略的視點から対応すべきです。中日両國の政治家は、中日関係をもっと長い目で見るべきです。近視眼的な見方は良くなく、望ましくありません。アジアと太平洋地域の情勢から見れば、中日両國は仲良くしなければなりません。さらに大きく言えば、私たち両國の関係が良くなれば、國際情勢全體にとっても意義があります」
鄧氏は中國の方針についても述べた。「私たちの総意は、日本と子々孫々にわたって友好を続けていくことです。この方針は毛沢東主席と周恩來総理が何度も重ねて表明してきた政策です。この政策は、中國の指導者が変わっても変更することはなく、中日両國が友好的に付き合わないという理由もありません」
さらに鄧氏は、「私は、両國の協力の見通しは良好だと信じています。私たちがあなた方から學ぶべきことはたくさんあります。私たちが四つの近代化を実現させるには、友人の助けが必要です」と話し、將來についてこう語った。「中日両國が友好的に協力することは、歴史が私たち雙方に與えた使命です。時にはいくつかの問題について、中日雙方は異なった見方を持ち、ひいては困難が生じる場合もあるでしょうが、中日友好の大局から見れば全てが一時的で些細な問題であり、全て解決することができます」
中日の経済交流について話が及ぶと鄧氏は、「私たちの間に全く問題がないというわけではありません。もちろん、全體的な発展は満足できるものです。では何が問題かと言うと、私たちの関係がまだ十分に発展していないということです」と問題を示し、さらにこう指摘した。「私たちは確かにあなた方から多くの助けを得たと言えるでしょう。しかし問題は、民間企業の私たちへの支援と協力がまだ足りず、不十分だということです」
その上で鄧氏は、「私たちの今の関係を考えれば、雙方とももっと遠く、もっと広く見るべきです」とし、「中國は対外開放をさらに強化し、沿海各地に特別區を作る予定で、日本側の參入を大歓迎します」と期待を表明した。
中國の経済について鄧氏は、「いま目の前にある問題は、今世紀末までに(國民総生産=GDPを現在と比較し)4倍にできるかどうかということです。この目標が打ち出されてからすでに5年がたっています」と切り出した。
経済の話題について、鄧氏はエピソードを交えて説明した。「この『4倍にする』については、ちょっとした話があります。それは、大平正芳首相が79年に北京に訪れたときのことです。首相は私に、『あなた方の近代化建設の具體的な目標は何ですか』と聞いてきました。當時、私たちはこの問題を考えたことがなく、困ってしまい、1分ほど答えられませんでした。考えてみたら、當時私たちの一人當たりの平均國民所得は250?でした。これが20年たち4倍になれば、1000?になる。1000?は決して多くなく、高収入でもなく、『小康家庭』(まずまずの経済狀態の家庭)と言えます。この小康家庭の実現を中國式の近代化と呼びます。これは全て大平首相との會談時に話したことで、この友人がヒントを與えてくれたおかげで得たものです」
これに対し中曽根首相は、「今世紀末に『4倍増』を実現させるためには、今後毎年7?2%の経済成長が必要ですね」と言った。
すると鄧氏は次のように具體的に答えた。「7?2%を2段階に分けます。つまり前の10年と後の10年です。前の10年は6?5%でいいです。この間は主に次の10年のための土臺作りです。そのためには、四つの分野にいっそう力を入れなければなりません。それはエネルギー?運輸?原材料?知力です。今の狀況を見ると、前の3年はうまくいっており、農業は順調です。私たちが心配なのは、前の10年ではなく後の10年で、準備が十分にできているかどうかということです。次の10年は大量の資金が必要です。私たちは資金が不足しており、他に方法がなく、開放するしかありません。なぜ中曽根首相にずっとこの問題について話すのかというと、あなたにもっと力を入れてほしいからです。これを実現するには、主にあなた方が企業の積極性を押し進めることです。日本政府の融資はまだまだ大変少なく、企業の積極性をまだ引き出していません。あなた方は米國と比べたら遅れていますよ」
會談が終わりに近づいた頃、中曽根首相はこう話し、尋ねた。「昨日、私は毛沢東主席記念堂を見學しました。周恩來総理のパリでの集合寫真を見て、その中に閣下の姿もありました。今も昔の面影があるようですね。世の中の激しい浮き沈みと移り変わりの中、閣下は中國の獨立のために貢獻されました。今のお気持ちはいかがでしょうか」
鄧氏は笑いながら、これまでの人生をこう振り返った。「私は當時まだ19歳でした。18歳から革命運動に參加し、革命の成功だけを考え、それ以外は何も考えませんでした。そうして歩んできた道は苦難に満ちたものでした。私自身は27年に帰國し、その年末には中國共産黨の中央秘書長になりました。23歳でした。能力や知識があるとは言えませんが、やり続けました。29年に中國工農紅軍第7軍を率い、広西チワン(壯)族自治區?百色での武裝蜂起を指導して以降、ずっと軍の仕事を続け、解放戦爭、中華人民共和國の成立まで続けました」
中曽根首相はまた、「長征から延安に著き、そして新中國が成立するまで、閣下が最も苦しかったことは何でしょうか。また最もうれしかったことはなんでしょうか」と尋ねた。
鄧氏は、タバコを一服し靜かに答えた。「最も楽しかったのは3年間の解放戦爭です。當時、われわれの裝備は貧弱で、弱者対強者、少數対多數でしたが、全ての戦いに勝ちました。新中國の成立後、うまくいったことは全部うれしかったです。失敗したこともあり、それは苦しかったです。私にも責任があります。私は普通の幹部ではありませんから。私は56年に総書記になりました。7人の指導者の1人です。『四人組』事件の後、私はまた何年か仕事をしました。この7年間、大きな間違いはありませんでした。でも、結局どうでしょうか。80を過ぎたら間違いをするかもしないし、これは分かりません。その評価は私がすることではないので、歴史に任せましょう」
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私は、この鄧小平と中曽根康弘という二人の偉人の歴史的な會談を、その場で見屆けた。