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滁州 湖沼の恵みと改革の精神 太鼓鳴る明の皇帝の古里

2024-07-22 14:28:00

袁舒=文 

長(zhǎng)江流域と淮河流域の間に位置している滁州(じょしゅう)。約1000年前、州の太守を務(wù)めた宋代の文豪?歐陽(yáng)修(1007~72年)は瑯琊(ろうや)山に登り、「環(huán)(めぐ)りてみな山なり」の雄大な自然の中で、「野芳(や?ほう)(ひら)きて幽香あり、佳木、秀いでて繁陰あり」の美しい景色を楽しんだ。また、州の大自然は、農(nóng)民出身の皇帝?朱元璋(1328~98年)を生み、先頭に立つことを恐れない「小崗精神」を育て、「鳳陽(yáng)花鼓」の軽快なリズムを奏でた。そして、王陽(yáng)明の心學(xué)の普及を推し進(jìn)め、清代の文學(xué)者?呉敬梓の小説の生き生きとした登場(chǎng)人物を育む土壌ともなった。今月號(hào)の「美しい中國(guó)」では、「醉翁の意、酒に在らず」とたたえられる州の絶景と文化を読者の皆さんと一緒に楽しみたい。 

明王朝勃興の地 

知られざる帝都 

高速鉄道の州駅で下車し、そのまま北西に2時(shí)間ほど車を走らせると、淮河中流の南岸に位置する鳳陽(yáng)県に到著する。開けた広場(chǎng)に立派な古い城門があり、下車して解説パネルを読むと、ここが明代の帝都?中都の遺跡であることが分かった。北京や南京の故宮は有名だが、それらができる前、明の初代皇帝?朱元璋が鳳陽(yáng)に帝都を建てていたことを知る人は少ない。だが実は中都の皇居の規(guī)模は北京や南京の故宮をはるかに超えたものだった。 

全ては朱元璋の天下取りから始まった。鳳陽(yáng)の貧しい農(nóng)家に生まれた朱元璋は、生計(jì)を立てるために牛を飼い、畑を耕し、出家して僧侶になったが、物乞いをするほど貧しい暮らしをしていた。元朝末期、社會(huì)的対立が激しくなり、紅巾の亂が勃発。朱元璋はこの亂に加わり、故郷の貧しい家の男たちを率いて戦亂の中で頭角を現(xiàn)し、277年の長(zhǎng)きに及ぶ明の帝國(guó)を打ち立てた。 

朱元璋は故郷の鳳陽(yáng)に深い愛情を抱いていた。明の洪武2(1369)年、彼は鳳陽(yáng)に都の建設(shè)を命じ、莫大な資材を使い、約150萬(wàn)人を動(dòng)員し、計(jì)り知れない富を費(fèi)やし、6年にわたる都の建設(shè)事業(yè)に著手した。また、この時(shí)期、朱元璋は「丹鳳朝陽(yáng)(賢才が好機(jī)に恵まれる)」という言葉から取って、ふるさとを「鳳陽(yáng)」と名付けた。しかし、洪武8年、朱元璋は工事の中止を命じた。名目上は、帝都の過(guò)剰なぜいたくを避けるためだったが、実際は地元の貴族グループの勢(shì)力を弱めるためで、首都は南京に移された。明の中都は竣工していないが、城壁、水利、宮殿、祭壇など、そのほとんどが完成に近く、史料によると、中都の皇居は、「明初三都」(鳳陽(yáng)、南京、北京)の中で最も規(guī)模が大きく、北京の故宮は完全にその設(shè)計(jì)図を基に建てられたという。 

殘念ながら、皇宮として正式に起用されることのないまま徐々に廃れた中都の皇居は、歴史の風(fēng)雪に埋もれ、発掘と保護(hù)が始まるまで長(zhǎng)い間、地元農(nóng)民の生活用地となっていた。上質(zhì)な城壁のれんがはブタの飼料を入れる桶を作るために持ち去られ、地元の小學(xué)校を建設(shè)する際にも、明朝の職人や窯の名前が付いたれんがが城壁からたくさん「徴用」された。「子どもの頃はよく城門に登ってたこ揚(yáng)げやバーベキューをしていましたが、これが明の皇居の門だなんて誰(shuí)も知りませんでした」。朱來(lái)苗さんは生粋の鳳陽(yáng)っ子で、故郷で明の中都の遺跡が遺跡公園として保護(hù)?発掘されると聞き、解説員の仕事に就いた。「中都で最も誇りに思えるものは、見事な石の彫刻です」と午門の須彌壇に觸れながら彼女は言った。 

北京の紫禁城の須彌壇は彫刻が少しあるだけの簡(jiǎn)素なものだが、中都のそれは、龍や鳳凰、麒麟、獅子、雲(yún)、海水、牡丹、芍薬、蓮の花など、縁起の良いモチーフを含む豊かな立體模様で飾られている。 

親孝行を貫いた皇帝 

朱元璋は鳳陽(yáng)に都を築くことはできなかったが、故郷には深い思い入れがあった。中都の帝都跡から南へ8?の太平郷に、明の皇陵がある。この陵墓の主は皇帝でも貴族でもなく、貧しい農(nóng)民夫婦だ。彼らは明の太祖?朱元璋の両親で、息子の孝行により、皇帝の死後に等しい最高の待遇を享受している。 

明皇陵に入ると、荘厳な參道がまっすぐに伸びている。參道は全長(zhǎng)257?で、両側(cè)に32対の石像がある。これらの石像には、麒麟、文官、武官、石獅子、石馬、石羊などが含まれ、立ったりひざまずいたりして、それぞれ異なる生き生きとした姿をしている。近づいて見ると、石獅子の頭の向きが微妙に異なっており、まるで子貓のようにあどけなく首を傾げているものもあれば、真っすぐ前を向いて獲物を狙っているようなものもある。神獣であれ家畜であれ、みな溫厚かつ謙虛な面持ちで、平和で豊かな世界の到來(lái)を象徴している。 

そのうち、ある石麒麟の左足は、他の石麒麟よりもずっと細(xì)く、まるで一部を切り落とされたかのようだ。「これは中國(guó)に『麒麟送子』という民間の言い伝えがあるからです」と明皇陵の解説員?張雲(yún)さんが教えてくれた。「昔、人々は子寶を祈願(yuàn)するために、石麒麟の足をナイフで少し削り、石の粉を持ち帰ってお守りにしていました。これをまねする人がどんどん増えたため、石麒麟の足は元の太さの3分の1まで削られてしまったのです」 

參道を終わりまで歩くと、右手にある高いあずまやの下に大きな石碑が立っている。その高さ6?87?の石碑には、朱元璋が書いた碑文が刻まれている。碑文には主に朱元璋の生い立ち、軍歴、明朝創(chuàng)建の全過(guò)程が記されており、凝縮された言葉の一字一句から、開國(guó)の皇帝がなかなか打ち明けられなかっただろう辛酸が読み取れ、また、時(shí)運(yùn)に乗って國(guó)家を繁栄させる道理も明らかにされており、読む人を感動(dòng)させる。朱元璋の故郷と両親への深い愛情、戦亂の中で天下を取った伝説的な物語(yǔ)は、今も鳳陽(yáng)の地で語(yǔ)り継がれている。 

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